文政・嘉永・安政年間
当時、御岳山昇仙峡に住む宮司だけのものだった水晶加工に、初代の宗助が心を動かされたのが始まりです。
宗助は昇仙峡にある金桜神社に足しげく通い、それまで門外不出とされてきた水晶加工技術を会得して、前身の「玉潤堂」を創業。
<玉根付附緒メ御数珠眼鏡・御誂御望次第>という、今で言うキャッチコピーを看板に掲げ、水晶加工製品の加工販売を始めました。
時は江戸後期・・・
浮世絵や川柳が流行し、粋で鯔背な江戸っ子町人文化(化政文化)が花開いた文化文政時代の真っただ中。甲府は徳川家の直轄領として江戸からの往来が頻繁にあり、城下柳町の土屋玉潤堂で売り出した水晶製の根付や櫛、簪は、めずらしい「甲州土産」として、徳川御家人集の間で大層評判を呼びました。
以来今日の7代目に至るまで、土屋華章はどの時代も次々と「新しいこと」にチャレンジしていきます。2代目宗八は、眼鏡のより精密な水晶レンズを研磨することで『甲斐国水晶鏡』として大衆に水晶めがねの一大ブームをもたらし、3代目松華は水晶印鑑の研磨篆刻名人として時の要人大隈重信や伊藤博文からの注文も受けました。
明治・大正・昭和初期
それにより欧米への輸出もはじまり、明治27年の頃の製造戸数20戸、職工数35人であった水晶加工業界は、明治45年には製造戸数141戸、職工数540人にまでに拡大するなど、華章の研磨加工動力機械の開発は、山梨の水晶加工業界において近代化(産業化)の重要なエポックメーキングとなりました。
昭和・平成
そして現在・平成
「伝統工芸とは脈々と伝承されてきたものをそのまま作り続けるのではなく、その技術を活かしながら時代にあわせた新しいものづくりに挑戦していくことだ」
という熱き思いのもと、若き職人と共に7代目・隆が工房を守っています。
100年の桶
100年の桶・・
明治中期から使われはじめたその木製の研磨桶たちは、朝になると工房の棚から細工台の上に置かれ、一日の仕事が終わると水で洗われて棚に戻される・・そんな平凡な日々を来る日も来る日も繰り返しながら、土屋華章製作所190余年の歴史の半分以上の歳月をじっと見つめ続けてきてくれました。
今までいったい何人の職人たちに使われてきたでしょうか。
楕円の形をしたその桶たちは、職人が研磨をする際に両腕をもたれ掛ける部分がみんな一様にすり減っています。
桶は知っています。
そのすり減った分だけ、職人たちがどんなに丁寧に根気よく石を磨きあげてきたか、どんなに愛情をもって一つ一つの製品づくりを行ってきたかを。
時代が遷り、生み出される作品や職人の手は変わっても、土屋華章の「ものづくりの心」は変わりません。お一つお一つ心を込めて丁寧に研磨加工した甲州水晶貴石細工の伝統の技・・・。工房では、職人たちがいつも変わらない妥協のない頑固なまでの手仕事を心掛け、脈々と受け継がれた職人の技と心を大切にしながら、時代に即した新しい伝統工芸品づくりを目指して日々挑戦をし続けております。