第1章・ことじの生い立ち

『私が持たんきゃぁ誰が持つでぇー!』

少女ことじは切断への恐怖心とあまりの激痛でバタついている母の足をガッシリと押さえ

持ちじっと耐えた。ことじの母は足先に出来た傷の炎症から壊疽が進み、ついには足の下部

の切断を余儀なくされていた。その母の足の切断に立会い狼狽するばかりだった姉達の中

で、気丈にも母の足を掴み持ち、医者がその壊疽の進んだ足を切り離すのを手伝ったのは

幼い末娘ことじであった。少女ながらに見せたその気丈さもさることながら、『私が持たんきゃ

ぁ誰が持つでぇ?他に誰か持ってくれるだけぇ?(私が持たなければ誰が持つの?他に誰か

掴み持ってくれる人が代わりにいるの?)』と叫んだことじのこの言葉に、これからお話する彼

女の波乱万丈な生涯を垣間見ることが出来る。

ことじは明治19年1月2日山梨県東八代郡英村(現在の山梨県笛吹市石和町下平井)にあ

る菊島家の四女として産声をあげた。

当時の英村では幕末の横浜港の開港以来盛んになった生糸貿易による日本の養蚕業・製糸

業の発展と呼応して地主制が一挙に拡大し、自作地を持ついくつかの中堅地主が多数の小

作農民を抱え、主に養蚕を盛んに営んでいた。ことじの生家である菊島家もその中堅地主の

一軒として広大な自作地を所有する養蚕農家であった。女ばかりの姉妹の中で、ひとり男の

子顔まけのやんちゃさで桑畑を駆け巡って育ったことじ。その負けん気と芯の強さも人一倍男

勝りであったと聞いている。

ことじの父は頼まれれば嫌とは言えないいわゆる『人のいい』男であった。それが災いして、

人の良さと広大な自作地を目当てにやってくる大勢の人々のムシンで、父は多数の借金の

担保保証人となり、ことじが成長するにしたがって菊島家の財産は火の車となっていった。

〈幼い頃に駆け巡った桑畑が他人様のものになっていく〉・・・その焦燥感がことじの元来の負

けん気に火をつけた。『私が取り戻さんと誰がこの畑を取り戻す!!』・・・・・・・

ことじは先ず女が自活できる道を考えた。女がお金を稼ぐには・・・・

『手に職をつけよう!他の人とは違った技術を学ぼう!!』

その頃東京では津田梅子が女子英学塾(現:津田塾大学)、成瀬仁蔵が国内初の女子高等

教育機関である日本女子大学校(現:日本女子大)を開設し、それまでの封建的な思想で縛

られてきた日本の女性がきちんとした高等教育を受け、一個人として社会進出が可能となる

時代の足音がすぐそこに聞こえてきていた。

ことじは単身東京に上京,当時は北豊島郡滝野川村字西ヶ原(現在の豊島区西ヶ原)にあっ

た農商務省蚕業講習所製糸講習科女性本科(後の東京農工大学繊維学部で現在の同工学

部)に入学を果たす。

明治27年7月の日英通商航海条約調印を皮切りに欧米列強国との通商条約を次々に交わし

し、当時のわが国は生糸産業を中心にした輸出拡大による富国強兵策を強化していた。明治

28年生糸検査法、同30年生糸直輸出奨励法により政府は日本の生糸製品の更なる輸出拡

大を睨むが、蚕種の微粒子病の流行、そして何より『どうせ言葉も通じない青い目の異人さん

に売るのだから』と玉石混合の不良な生糸製品の輸出が横行。この日本の生糸製品の品質

低下が引き金となりわが国の生糸輸出産業は危機に立たされてしまう。

これに頭を悩ませた政府は、この生糸製品の品質低下はそれまで養蚕教育が中心で製糸

に関する専門的知識を持つ人材が不足しているためであるとして、明治35年蚕業講習所官制

を制定。東京西ヶ原・蚕業講習所養蚕部の他に製糸部を設け、新たに農商務省管轄下の製

糸に関するスペシャリスト養成に乗り出したのである。

ことじは製糸講習科の3期生として、当時では数少ない女性のキャリアとして脚光を浴びてい

た〈製糸検査技術者〉の習得証を得るべく、迷うことなくこの学校を選んだ。

『手に職をつけて、畑を取りかえす!!』ことじの堅い決意に迷いはなかった。故郷から遠く離

れたこの東京の地でことじの青春は幕をあけた・・・・。

ことじ物語-ことじの生い立ち-いかがでしたか?我が曾祖母ながら、ちょっとカッコイイ!

さて、次は〈ことじの青春〉についてお話しようと思います。ことじのキャリアウーマンぶりや

ちょっぴり恋のお話も・・・・ではまた次回に。                   アオちゃん

画像

早春の桑畑