ことじと夫・孝の商売には実はある秘訣があった。それは・・・・・
《大事な交渉事は必ず女が行くべし》
非常に単純ではあるが、これが以外にも土屋華章の商いでは大変重要なポイントになってい
たのだ。その極意とは・・・それでは、当時の時代背景を踏まえながら、この《女が行くべし
・・・》の様子を少しお話していこう。
大正中期になると、それまで近くの御岳昇仙峡付近で産出されていた良質な水晶が枯渇し
始め、山梨の水晶加工業界は極度の原石難にあえいだ。その緊急事態を聞きつけた横浜の
砂糖貿易商社・三栄貿易商会/三浦雅登の助け舟により、大正8年日本に初めてブラジルか
ら500ポンドの水晶原石が輸入されることになる。これは従来の国産原石よりも値が安く、品
質も良かったため、原石難に直面していた山梨の水晶加工業者にっとってはまさに恵みの雨
となった。この三栄貿易商会の水晶原石輸入がきっかけとなり、それ以降山梨にもブラジルか
らの原石輸入を手がけるいくつかの貿易商社が設立される。(今でもよく《山梨では水晶が採
れるんですよね?》といった質問を受けることがあるが、これは大きな間違い。現在の山梨は
研磨加工技術における水晶・貴石加工製品の生産地であって、水晶そのものの原産地では
ない。原材料となる原石は南米・アフリカ諸国・中東など、世界中の原産地からの輸入に頼っ
ている。)
ことじは土屋華章の名代として原石仕入れの交渉のために、これらの輸入商社に出向く。
『篠原さん、今度の原石はいくら位で譲ってもらえるズラか?』
篠原貿易は甲府で一番最初にブラジルから水晶原石の直接輸入を手がけた商社である。
『ポンドあたり8円50銭。悪い値段じゃぁないと思う。これで今回は決めてください。早く決めて
くれないと他の業者に流れちまうよ!』
土屋華章にとってもポンドあたり8円50銭は悪い値段ではない。しかも今や安価で良質なブラ
ジル原石は他工房でも引っ張りだこである。しかし、ことじは即答を避ける。
『それは直ぐにでもお願いしたいようなお話ですけんど、何せ私は女なもので私一人の判断で
は決めかねます。帰ってお旦那に相談して来ますので、明日まで返事は待ってください。』
即答を迫られる交渉でも、先ずはこの《何せ私は女なもので作戦》を駆使して返事を先送りに
するのだ。帰るや否や早速明日の交渉に向けての作戦会議を開く。仕入れは1銭でも安い
に越したことはない。・・・作戦会議後の翌日の交渉はこうである。
『昨日帰ってお旦那に話をしたところ、ポンドあたり8円ではどうズラか・・って言うこんでした。
私はいくら篠原さんでもそれは無理なお話だとは言ったんですけんど、ウチのお旦那はああ
言う性格なもんで。ご無理は承知の上でお願いに参りました。ここはこの私を助けると思って、
今回は8円で譲ってくれんでしょうか?そうでないと帰ってからお旦那に叱られてしまいますも
んで。』
《ああ言う性格ってどんな性格なんだい?》っと突っ込みたくなりそうだが、ちょっとズルイ《旦
那に叱られてしまいます》などと言う見え見えの猿芝居も、《無理は承知》といった女性ならで
はのやんわりとした《下手攻撃》でなんとなく煙にまかれ、結局『土屋の女将さんにはかなわ
ない』とことじの仕入れ交渉はいつもこんな風にしてマンマと成立してしまうのだ。
第一次世界大戦中(1914年~1919年)は輸出産業の好景気に加え、後進産業であった化
学工業が最大の輸入先であるドイツとの交戦によって、自国での生産の必要性のため飛躍的
に発展し、わが国の近代化が一気に加速した。その結果、日本にも《成り金》と呼ばれる新興
富裕層が多数台頭することとなる。大都市ではカフェーが出現し、日本髪からパーマネント、
和装から洋装へ・・《モガ》《モブ》と呼ばれるハイカラなファッションに身をつつんだ男女が街を
闊歩する。華やかな大正文化の最盛期である。この婦人達の洋装による装身具需要を睨み、
輸出で力をつけた山梨の水晶加工業者達は、百貨店等の国内販売への商圏拡大にも乗り出
すようになっていく。土屋華章にも欧米からの注文に加えて、東京などの百貨店からも商談が
舞い込むようになっていった。そこでまたまた、ことじの登場である。
百貨店の仕入れ担当者との交渉は決まって彼女が出向いていく。商談相手がいつも奥方で
あったため、ことじは『土屋華章の未亡人』だと勘違いされたこともあったそうだ。そして、重要
な決断を迫られる場面になると『今日私はお旦那の代理で来ましたモンですから、お返事は
後日に』といった例の《スットボケ》が慣行される。それから甲府に帰って《決めの一手》に向け
ての作戦を練りに練り直すのがお決まりであった。
この《大事な交渉ごとは必ず女が行くべし》の極意・・もうお気付きだとは思うが、《戦いに
挑むには先ず相手の手の内を覗いてから》という少々狡賢い戦法である。大事な交渉だから
と言っていきなり御大登場では、YES・NOの決断を迫られた時にも逃げようが無い。即、斬る
か斬られるかである。先ずはことじが出向いてワンクッション。相手の手の内を覗いて作戦を
練る時間を稼ぐ。そして女性ならではのしなやかさで、ヤンワリと相手方に近つ゛いて王手!
ことじのこの《スットボケ時間稼ぎ作戦》は、当時土屋華章が東京日本橋にある百貨店で水晶
製品に関する販売権利契約を勝ち取った際にも大いに役立ったそうだ。
大正12年9月1日、丁度もう直ぐお昼の休憩時間というその時、魚町の土屋華章の工房にも
地面を這うような地鳴りと共に激震が走った。関東大震災である。震源の相模湾沖・伊豆大
島からはかなりの距離があったため大惨事こそ免れたが、それでも工房の瓦という瓦は全て
軒下にずれ落ち、中で働いていた職人達を震えあがらせた。
大戦終結によるヨーロッパ経済の急速な回復のために、それまでの過剰な設備投資のツケと
大量の在庫滞留が膨らんで悪化していた日本経済にとって、この大地震は傷口をさらに大きく
広げる出来事となった。京浜工業地帯は壊滅状態となり、物資の緊急輸入は更なる在庫の
膨張張をもたらした。また、戦時中に禁止していた金輸出禁止解除の時期が遅れたため日銀
に金が停留し、金本位体制による通貨調整機能が失われて、政府・日銀ともに景気回復への
対応が後手後手に回っていた時期とも重なり、震災手形と不良債権問題発生で、日本経済
は出口が全く見えない長く暗いトンネルの中へと入り込んでいくのである。華やかなりし大正
時代は終わりを迎え、時代の波は大きなうねりをたてて激動の昭和へと突き進んでいく。そし
てことじ自身にとっても、この激動の時代の足音と共に忍びよって来る幾つかの深く悲しい出
来事がその後待ち受けていることに、その頃まだ彼女は気つ゛く筈もなかった・・・・・。
《ことじの商才―商売の秘訣―》いかがでしたか?相手の手の内を覗いてから勝負をかける
・・・ちょっとズルイ。でも食うか食われるかの商いの世界。真剣勝負だから許してね!
次回は、《ことじの秘密》についてお話してみようと思います。秘密って何??それは次のお楽
しみ!ではまた!
アオちゃん
水晶の原石