ことじは座敷の片隅にそっと《それ》を飾り置いた。
さり気なく、しかし確実に目が留まる場所に・・・・・・・。
亀之助が技能者養成所を設立し、東京などから彫刻の専門家を招いた講習会を開催してい
た以前にも、水晶美術彫刻協同組合では華章(孝)が中心となって職人達の技術勉強会なる
ものを度々開いており、その日は東京藝術大学彫刻科教授・山本豊市が特別講師として招か
れていた。
山本豊市は大正13年に渡仏。無名女性の姿の簡素な造形によって女性美の永遠の魅力を
追求したことで有名なあのアリスティード・マイヨールのもとで彫塑芸術を学び、昭和3年に帰
国した以降は、古仏美に目を向け、特に乾漆技法の研究により、乾漆の柔らかな味のある質
感を生かした女性像などの作品を数多く残した日本彫刻界屈指の彫刻家である。彼の手がけ
た作品は現在、国立近代美術館、横須賀美術館など各地の美術館などに展示保存されてい
るが、私達が身近で目にすることが出来るものとしては、新宿駅東口地下道の壁面彫刻や新
宿中央公園北側にある〈久遠の像〉という作品があげられる。
勉強会での講義が終わり、『我が家で粗茶でも・・・』という孝の誘いで山本が土屋家にやっ
て来た。茶菓と他愛もない世間話が途切れ、一瞬の間をおいて山本の視線が《それ》に注が
れる。・・・・・『この《首》は?』・・・・・彼の視線の先にある《それ》とは、ことじと孝の目の中に
入れても痛くない程のかわいい孫、娘いよ子の忘れ形見・穣が作った彫塑作品《首》であっ
た。
『いや何、孫がこんなモンを作ることに熱中しておりまして、最近は自分で展覧会だかなんだ
か分からんモンに出品したりしているんです。お恥ずかしいものをお見せして・・・。』
隔世遺伝・・・どうやら孫・穣には孝のDNAがしっかりと受継がれたようで、幼い頃から穣が
描いた鉛筆がきの絵や、工房で悪戯半分で作った研磨彫刻まがいは周囲の大人を驚かせる
ほどの中々の腕前で、それらは度々孝やことじの目を細めさせていた。
『穣はいい職人になる。ワシがじっくりと育てる。』細めた目をいっそう細くして孫を見つめる孝
であったが、ことじは夫の孫に対する溺愛ぶりを知っているだけに、それが穣の開かれた未来
や才能をかえって駄目にしてしまうのではないかという心配をもっていた。
穣は外に出すべきだ。ことじは予てからそう考えていた。肝心なのはそのタイミングである。
山本の来訪はその絶好の機会であった。このときを逃す手はない!彼女は、夫に内緒で座敷
の片隅に出しておいた穣の作品に山本の視線がマンマと留まったことに内心ほくそ笑みなが
ら、すかさず問いかけた。
『先生!専門家からみて孫には美術の才能っちゅうモンが少しは備わっているんでしょうか?
正直にお答えくださいまし。』 山本は少し驚いた表情をした。ことじの息せき切った問いか
けにではなく、その《首》がそこにあることに驚いたのである。
『この《首》はとてもよく覚えています。土屋さんのお孫さんの作品でしたか。昨年の院展の選
考会で拝見いたしました。この彫塑は手がとても良いと、最終選考まで残されたのですが、出
品者が無名で年齢もまだ若い。それならば今回は入選を見送りましょうということで落選させ
たのです。』そして続けてこう言った。『お孫さんを東京で勉強させなさい。そして将来はヨーロ
ッパにでも研鑽にいかせたらいい。私が彫刻を勉強したパリは芸術の都とよばれていますが、
これから美術の研鑽にいくならイタリーです。イタリーは芸術の宝庫ですよ・・・・。』
かくして孫・穣は東京藝術大学彫刻科山本豊市教室で彫塑・彫刻デッサンを学ぶこととなっ
た。東京上野にある東京藝術大学美術部のキャンパスは、道を一本隔てて分かれているブル
ジョワな香り漂う音楽部とは対照的に、絵具や石膏、木炭の匂いがそこら中に充満し、画材で
汚れくたびれたシャツや擦り切れたズボンを当たり前のように着こなし??たバンカラ・・・という
かはっきり言って貧乏くさい学生が大勢闊歩している場所であったそうだ。(当時の話は、であ
る。)学生食堂も美術校舎にある《大浦食堂》のメニューは、貧乏美学生の胃袋を満たす質よ
り量の定食や丼モノ。かたや道一本向こうの音楽校舎の《キャッスル食堂》は、エビフライやハ
ンバーグ、サンドイッチなどといった類いの洗練されたメニューが並び、価格も少し高め。
ブルジョワジーな音楽部とプロレタリアートな美術部・・・・しかし、穣はこの清貧??な風薫る美
術部のキャンパスがいたく気に入り、熱心に彫塑やデッサンの勉強に励んだ。
クロッキーで木炭の消しゴム代わりに使う食パンの耳や切れ端を、道を渡った《キャッスル食
堂》まで貰いに行く。『どうせお兄ちゃんも食べることに不自由しているんだろう?』とキャッス
ル食堂のおばちゃんが、デッサンに使う以上のパンの切れ端をくれたりする。当時は学食でも
《ツケ》がきく時代で、払いが溜まって大浦食堂に顔を出せず、隣の音楽部食堂で《画材用》
のパンの耳を貰っては、それを食事代わりにしていた貧乏美学生も実際には珍しくはなかった
そうだ。学校裏の画材屋の2階では、《モデル市》が頻繁にひらかれて、お金さえ払えばデッ
サンのモデルに困ることもなかった。
時には市で見つけたモデルに下宿先まで来てもらうこともあり、穣が下宿先として転がり込ん
だ姉・翠の世田谷・代沢にある新婚所帯一階の応接室で、女性の裸体をゴロンとソファーに横
たえて、一心不乱にクロッキーを描く。
『穣くん、ただいま・・・・』と義兄・松井達男がドアを開けると、全く見ず知らずの女が我が家の
長椅子にポーズをとってスッポンポンで寝転がっているのである。いくら弟のこととは言え、翠
夫妻にしてみれば、新婚家庭に転がり込まれ、おまけに家の中には素っ裸の見知らぬ女性
がしょっちゅう寝転がっているんじゃぁ、堪ったものではない。
とにもかくにも、そういった穣の熱心さが実を結んで、その後彼は、昭和31年の第41回日本美
術院彫塑の部で作品『トルソ』が初入選、続いて第42回院展以降も3回連続入選を果たし、同
院院友にも名前を加えられるなど、穣の才能は東京で一気に開かれていったのだった。
穣の作品が院展で初入選した昭和31年は、土屋家にとってはお祝い続きの年であった。
同年4月20日、孝に山梨の水晶業界で初めて黄綬褒章が授与された。50余年間にわたって
水晶細工ひとすじに打ち込み、自らの創意工夫によって数種の機械を考案、水晶彫刻に画期
的な改善をくわえて輸出の伸長に寄与した努力と、その間の百数十名の技術者の養成、瑪
瑙原石の焼入れ法の完成などの功績による褒章であった。
夫やその弟子達が作った製品を背負い抱えて汽車にゆられた外国人への行商、自由に商売
が出来なくなった辛い戦争、『この子達を立派に育て上げてみせる』と幼い孫たちの小さな手
を握り締めた悲しい愛娘の死・・・。
ことじにとってもこの夫の褒章と孫の院展入選は、彼女の苦楽を乗り越えた半生の集大成とも
いえる嬉しいお祝いごととなった。鵜飼橋の恋文攻撃からはじまってことじが土屋家に嫁いで
から、気がつけば40余年の月日が流れていた。
昭和33年2月16日、かねてから肺癌をわずらっていた孝が永遠の眠りについた。享年72歳。
喜びや悲しみ、苦渋や笑顔をともにした孝は、ことじにとっては愛する夫であり、尊敬するお旦
那であり、半生の同士であった。水晶界の功労者としての孝の出立は、弟子をはじめ多くの
業界関係者らによって涙で見送られた。
積み上げられた香典の山を前に、ことじは静かに言った。『これは50余年、お旦那がひとすじ
に貫いてきたことへの皆さんからの尊敬と感謝の気持ち。何か人様のお役に立つものに残さ
ないと申し訳ない。』
《水晶は人間の生活や心を豊かにさせる美しい自然の産物。その輝きをより美しく輝かせるこ
とがワシらの仕事である》という亡き孝の《もの作りの美学》にのっとって、ことじは『人さまの
生活や心を豊かにするもののために使ってください』と積みあがった香典の山をそっくり甲府市
に寄付し、それは市の《愛の鐘》基金として役立てられた。(この寄付の功績ということで、こと
じはその後、孝の名前で紺綬褒章なるものを授与された。)
《♪ゆー焼け小焼けで日が暮れてー、やーまのお寺の鐘がなるぅー♪》
ことじの寄付で各地区公民館などに取り付けられた《愛の鐘》は、スピーカーを通じて毎日一
回午後5時になると《夕焼け小焼け》のベル演奏を甲府の町々に流す。多くの若い弟子達を
育て上げ、彼らに《人の心を豊かにするためのモノ作り》を伝え続けた頑固一徹な老職人の心
は、茜色の空に奏でられるメロディーとなり、公園や道端で遊ぶ子供達に夕暮れと帰宅を促す
合図として親しまれるようになった。
昭和30年代には、青少年の健全育成を目指す運動の一環として全国各地のいたる場所に
市民などの寄付による《愛の鐘》が設置された。平成の世の中となった現在では《騒音問題》
などといって、日に1回もしくは2回のスピーカー放送を取りやめにした都市・地域も沢山ある。
今の子供達などは、塾やお習い事の時間で放課後のスケジュールも一杯。家の中でパソコン
ゲームに熱中して公園や道端で遊ぶ子供も少ない。ましてや小さな子供が簡単に連れ去ら
れ、犯罪に巻き込まれてしまうような物騒な時代である。子供達のための《愛の鐘》が、ただ
煩いだけのスピーカ放送となってしまったのだ。
《♪カエルが鳴くから、かーえろぅ♪》
―子供達よ、今日も一日よく遊んだかい?さぁ、お母さんがまっているよ。
暗くなる前にお家にお帰り。―
そんな昭和の古きよき時代の心の豊かさが、殺伐としたスピード時代に消されていくことに
少しだけ寂しさを覚える今日この頃である。
山本豊市〈エチュード・1959〉・国立近代美術館所蔵
土屋華章
《ことじの戦後―半生の集大成―》のお話はここまでです。いかがでしたか?
さて次回のお話は、いよいよ最終章。幼き日の私も一寸だけ登場する予定です。
お楽しみに! アオちゃん